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(2011.09.16)
豊太閤護持佛碑

須坂市上町にある寿泉院境内にある「北向観音堂」は、須坂藩初代堀直重によって建立され、中には豊太閤護持佛<ほうたいごうごじぶつ>が安置されていました。

明治4年に当時の須坂県知事であった堀直明より、豊太閤護持佛にかかわる全てのことを上町の青木家に依頼したことから、現在は、年に一度8月10日のみ北向観音堂に置かれるようになりました。
それ以外は観音様の保護者として上町の青木家にて保管されています。


豊太閤護持佛とは、豊臣秀吉が大切に信仰していた仏像のことで、もともとは朝鮮半島の国王によって代々受け継がれてきた仏像を、朝鮮出兵(文禄の役)の大将であった「宇喜多秀家」が国王から拝請し、帰国後に秀吉に献上したものです。
秀吉は大変喜び、大阪城内に安置し、天下泰平、息災延命を祈ったのでした。

その後、大阪夏の陣によって大阪城が陥落。
落城後の監守役に命じられたのが堀直重でした。
直重は城内に安置されていた豊太閤護持佛を深く信仰するようになり、このことが将軍の耳に入ったことで、大阪夏の陣の論功行賞として領地1万2千石と共に観音様を賜ったのです。



明治40年頃、この豊太閤護持佛の存在をもっと広く示そうと、当時の寿泉院住職が豊太閤護持佛碑の建立を豊太閤護持佛の保護者である青木甚九郎に相談をしたことで、上町に豊太閤護持佛講が組織されました。
豊太閤護持佛碑を建立するということで、近隣地区の協力のもと、碑石と碑台石が決まり、それらを寿泉院まで運搬することになりました。


それぞれの石の運搬については次のように伝えられいます。

豊太閤護持佛碑
運搬の様子
■碑石について
豊丘地区の河原にあった高さ5.4m、厚さ1.9m、幅2.7m、重さ約30トンの自然石。
明治40年11月15日より豊丘村の村民一同で荷造りが始まり、12月8日に荷造りが完了。早速運び出そうとするも、あまりの重量に苦戦し、ようやく12月24日に川の谷底から街道まで搬出されました。
12月27日の早朝より運搬を始め、同日夕方に寿泉院に到着したそうです。
5800人の人手、33日間費やしたのでした。

■碑台石について
高井村(現高山村)にあった巨石で、高さ3.5m、幅6m、重さ243トンという大きな石でした。
明治41年1月9日より高井村の有志によって荷造りが行われ、2月5日に大そりに積載されました。
それから連日数千もの人で石をひっぱり、3月22日にようやく寿泉院にたどり着くことができたのでした。
延べ51万200人もの人手と、74日間という時間が費やされたのでした。



碑石に刻まれた「豊太閤護持佛碑」は、豊国会会長従二位勲二等候爵黒田長成氏によって書かれました。



今回の参考文献
須坂繁栄画報<和久井孝治郎著>
上町だより昭和54年3月31日号<上町分館>
上町だより昭和54年8月31日号<上町分館>



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