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須坂市探検隊


(2015.12.31)
小林季定の雄姿
奥田神社境内に台座のみ残された石柱があります。
これは、幕末から明治時代にかけて須坂藩の要職を務めた小林季定<こばやしすえさだ>の銅像が置かれていた台座です。

小林季定は通称「要右衛門」とよばれていた。
直心影流の達人で多くの門人をもっていた要右衛門季阿の二男として文政12年(1829)に生まれた。
季定は、父から剣道免許を受け、御側助勤<おそばじょきん>、6石2人を給された。このように12代須坂藩主直武に従って江戸勤番、或いは諸加番に従い、安政頃には江戸定府となった。そして、大坪本流の剣術を膳所藩士馬場大三郎に、銃隊操練を幕臣曾根について修業した。やがて、文久元年11月の13代須坂藩主によって行われた藩政改革には、密命を受けて粛正に活躍した。
良く2年2月、13代須坂藩主直虎の側近に登用された。


慶応4年1月、藩主直虎は、江戸城中にて諌死し、一藩は騒然となった。この中に総督より直接の呼び出しがあり、3月季定は藩の代表として美濃国の大垣の総督府に赴き、総野出兵の命をうけた。季定は急遽須坂に戻り、打ち合わせをするとすぐに江戸に出張し、兵器弾薬を整え、兵1小隊打、砲1門を率いて出陣した。内参謀祖式金八郎の手に属し、館林藩の1小隊と共に4月5日、結城城を攻略して、これを守備した。16日明け方、茂呂にて1800余りの幕府軍と大激戦となった。更に17日には多くの幕府軍に包囲され、援軍もなく苦戦の末に撤退を余儀なくされた。江戸に引き揚げた後に内参謀祖式の免職退身を機に、在所近辺の備えを理由に総督府に出兵御免を願い、須坂に引き揚げた。
後に須坂藩への章典5000石のうち、54石が戦功章典として小林季定に下賜された。
藩政一新となると、季定は大・小事参事に選任する件について建言書を提出した。恐らく、思い切った人材登用を建白したのではないかと伝えられている。新政では二等隊長にとなり、剣術、銃術、馬術の教授主事および藩主の家扶を命じられた。明治3年11月の職制改正には須坂藩隊長兼銃隊教授及び剣術、馬術教授となり、4年9月、須坂県が長野県に統合されると退官した。

維新の戦乱が収まると、臥竜山上に招魂碑を建て、毎年藩で祭事を執行したが、廃県以後は、季定や永井定道・剣持正孝が中心となり、盛大に祭事を続けた。やがて招魂社が常盤町に建てられ、季定が明治34年4月に死去すると、翌年10月、門人有志等は、総野における季定の雄姿を銅像にとして社頭に建立した。

昭和18年、戦争のために回収され、現在は台座のみが残されています。
須坂藩存続のために命を張って戦い、そして守り抜いた季定は、須坂が誇る偉人の一人だと思います。
このことを後世に伝えていくためにも銅像の再建が望まれるところです。





今回の参考文献
須坂市人物誌<須坂市人物誌編集委員会>
激動の幕末を拓いた藩士たち<須坂市立博物館>


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